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続、楕円球の青春

続、楕円球の青春 Vol.03

投稿日時:2015/09/20(日) 21:35

男たちの意地をかけた戦い

勢いだけで23歳の私が飛び込んだ世界は、想像以上に熱い戦いが待っていた。その戦いの場の名は「商社リーグ」。やや曖昧な記憶ではあるが、今から50年以上も前に、新日本製鐵の幹部が指定商社の10社を束ねて組織したものだと聞いている。夏が明けた9月からシーズンが始まり年内には全試合が終了する、約3ヶ月間の戦いだ。

当時、当リーグに参戦していたのは、三菱商事・三井物産・住友商事・伊藤忠商事・丸紅・日商岩井(現、双日)・トーメン(現、豊田通商)・ニチメン(現、双日)の8社であった。上述のリーグが組織された時には、この8社に加えて、兼松・東京貿易が参戦していたと聞く。「商社冬の時代」と言われ続けて久しく、特に下位商社や専門商社は採用にも苦労をしており、ラグビー人材を確保する余裕が無かった。

私の所属するトーメンラグビー部については、同期の人数こそ30名程度と決して多くは無かったが、この同期の中に体育会ラグビー部出身者が複数名おり、先輩らも同様にラグビー部出身者は定期的に入社していた。そういう意味で、私のような素人ラガーが、ラグビーを学ぶには非常に恵まれた環境であった。知識の無い私ひとりに対して、4~5名の先輩がつきっきりであれこれと指導をしてくれた。後から聞いた話だが、私が練習に参加した当初は「どうせすぐに来なくなるだろう」と、少し遠目に見ていたようだ。ただ、どうしようも無いほど下手くそでも、毎週毎週欠かさず活動に参加する姿と、宴席におけるハジけたキャラが先輩らの目に留まり、グランドでもグランド外でも可愛がり稽古をつけてくれるようになった。

春シーズンは練習や練習試合を繰り返し、夏はビーチラグビーと夏合宿で長い時間をメンバーで過ごし、徐々にチームの結束とテンションは高まっていった。夏合宿の晩に、夕食を終えた後、大広間で集まってホワイトボードを使って、自チームとしての戦い方を協議していた。その内容については、ほとんど何も理解することは出来なかったが、これから始まるリーグで勝つために、メンバーが真剣に意見を交わしていたというのは分かった。先に述べた、早稲田出身の同期もその話し合いの中心にいた。

商社マンになりたい。当時、その理由はきちんと説明できなかったが、熱い人たちが集まる業界だと感じた。OB訪問などで仕事を語るその姿はとてもカッコいいと感じた。学生時分の、その無邪気な憧れとも言える青い思いと、ノリと勢いだけで挑戦し、縁あって内定した会社に入社した。ただ、真の意味で上位商社との格差を目の当たりにしたのは社会人になってからだ。何となく認識はしていたし話には聞いていたが、その差は想像以上だった。悔しさを噛み締めていた。同じ人間じゃないか、同じ男じゃないか、同じ商社マンじゃないか、と。

グランド上の試合においては、その勝敗が結果として刻まれる。強い方が勝つ、勝った方が強いのだ。「あの試合は勝てた」などと言う事実は存在しない。ビジネスの場では到底適わないほどの圧倒的な差が存在するかもしれない。ただ、ラグビーにおいては勝つことができる可能性がある。自分らがどこまでやれるか、やったかだ。当然相手も同じように鍛錬を積んでいる。条件は同じだ。これは先輩の誰かに言われた話ではない、自身の中に芽生えた感情だ。

そのために、自分ができることが何かあるのか?あるとしたらそれは何だ?
私のラガーマンとしての人生はここで始まったのかもしれない。

つづく

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学生時代からラグビーやってると思ってました。惑惑の休みの日には芦屋の練習にも顔出します!

Posted by 永山 at 2015/09/25 16:18:32.672458+09 PASS:
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